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フィクション読解の原則

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こんにちは、オンライン国語講師の平井です。

 

だんだん暖かくなって過ごしやすくなってきましたね。春以上夏未満の今の時期が一番ちょうどいいです。

この前東北道の大谷PAの下りでアニメの専門店(ジブリ系が多かった)みたいなのがありました。PAなのにニッチなお店ですね。

写真↓(ジジが異様にでかい笑)

 

さて、今回は、「フィクションを読解するとはどういうことか」というテーマで記事を書いていきたいと思います。事実上前回の記事とシリーズになっています。この記事と前回の記事合わせてご覧いただきたい内容です。

 

フィクション系の読解、非常に苦手意識持っている受験生多いですね。

昔に比べ大衆的or一般教養的作品が見られなくなったとか色々理由はあると思いますが、学校でちゃんとフィクション読解について解説していないというのが最大の原因だと思います。

学校の授業では「なんと~~く」小説の読み合わせとかやるのですが、フィクションとは何か的な超基本的な話はされないです。


ちなみにこの現象は、論理的文章にもあてはまります。”論理的に考える”とかおもいっきり通知表の評価項目にいれているくせに「論理」という言葉そのものは一切解説してくれないという奇妙なカリキュラムは学校にも塾にも見受けられます。

 

僕自身、レッスンをしていて、”論理”ってことばを聞いたことがあるという生徒さんは大半ですが、じゃあ意味を説明してみてと言われると99%の生徒さんが言葉に窮します。

 

論理という考え方を教えずに、論理的文章を読解するというのは非常に遠回りです。論理的文章を読解するためには、論理という言葉についてまずは理解していく必要があります。

 

論理についてわかりやすく解説されている本はこちら→「13歳からの論理ノート


ちょっと話がそれましたが、フィクション系の文章の読解も結局は同じことです。小説物語、詩短歌俳句というフィクションを読解させているのですから、まずは、「フィクション」とは何かということを教えるのがあるべき国語指導です。

 

わたしはレッスンで「フィクション」という言葉を説明する際に、

「本当にはないものをあたかもあったかように創ったもの」

と説明しています。

本来の意味は、「想像によって架空の筋や事柄をつくること。仮構。虚構。」という意味です。

フィクションは、現実にはない世界をあたかも現実のように創り込むのです。

ということは、そこに作り手の意図や意思がこもるということです。


例えば細田守監督は、インタビューで以下のように答えています(正確な言葉は忘れましたが、大意は合ってます)。

「アニメーションは、すべての画を人間が書いています。ということは、その画の中に作り手が描こうとしていないものは映らないのです。」

これ非常にフィクションというものの本質を突いている言葉だと思います。

 

細田守監督はアニメーション監督ですが、これは小説物語詩短歌俳句においても同じこととです。

 

アニメにしても小説にしても、本来は存在しない世界をあえてつくりあげているのですから、そこには必ず作り手が「描く必要がある」と感じたものが描かれます。


まず、細田監督の「おおかみこどもの雨と雪」を例に挙げてみます。こちらの作品は、セリフや直接的な説明を用いずに、登場人物の内面や状況を描写しています。その意味で非常に国語読解的映画です。以下にいくつかの描写を挙げてみます。

・主人公「花」の本棚の中身が変わる

 主人公 花は非常な読書家として映画内で描かれています。なので、常に彼女の部屋の本棚を画に取り込んでいるのですが、注目すべきは、この本棚の中にどんな本が置かれているかということです。出産に関して悩んでいるときは、出産や育児に関する本が。自宅の菜園に苦労しているときは、家庭菜園に関する本が並んでいるのです。また重要なことは、本は新品ではなく中古本。購入ではなく、図書館で借りた本がしっかりと描かれているのです。つまり、ここから倹約家であるという人物像も浮かび上がってきます。人生の悩み事を本を読んで乗り越えようというちょっと古風でもしっかりと生きている女性像が描けています。

・階段の途中の鏡

 この映画では、学校にある階段が印象的に描かれています。またそこに鏡があるという舞台設定も非常に意味があるといえます。まず、階段が登場する場面では「子供っぽい雪(※雪という登場人物)」や「思春期の雪」が描かれます。つまり、階段に人物を配置することにより、”大人になる段階にこの登場人物はいる”という意味を込めることができるのですね。また、階段の途中にある鏡を自分自身が見つめるという描写もありますが、これは、思春期の少年少女が自分という人間を客観的に見つめるという描写になっています。

このように「おおかみこどもの雨と雪」は非常にセリフでの説明がない中で、「画的」に様々なメッセージを埋め込んでいる映画です。なので非常に国語読解的な読みが必要になる映画です。そのほかにも様々な描写がなされていますので、ぜひ観てみてください。


はい、まず、映画という非常にわかりやすい例でフィクションの構造を説明しました。

 

フィクションは現実っぽく再現しているだけで、決して現実ではないということが重要です。

 

フィクションと現実の違いを表としてまとめるとこんな感じになります。

このように現実はただの偶然でしかないです。例えば、今日の服何を着るとか、どんな人としゃべったかなど偶然でしかありません。しかし、フィクションは主人公の服や通学路、風景、他の登場人物などすべてに意味が込められていますよね。

 

何気なく描かれている描写でもしっかりと作り手の意図が介在しているということがフィクション読解の原理です。


では、実際の小説を例にとってみます。

<引用開始>

竹下通り入り口の横断歩道の信号のところも、中学生高校生ぐらいの子でごった返している。むこうの信号から少し離れたところに、ひどく場違いな女の子が立っている。フ ァッション雑誌から抜け出してきたような格好。ストローハットをかぶり、段フリルのつ いたくるぶしまでの丈の白いコットンレースのワンピースを着て、人待ち顔に立っている。 でもあの子は、約束した誰かを待ってるんじゃない。いつやって来るかわからない幸運を待ってるんだ。タレント・スカウトの眼に止まるのを待っている。 あの子は、いつか有名になった時の自分がほんとうの自分だと思ってるんだろうか。なんだか、みんな別人になりたがったり、別人の振りしていたりするみたいだ。もっと人に 愛されたりパワーのある人になりたいおじさん、自分の家の不幸は隠し合っている信代おばさんとお母さん。今の私はどうだろう。

「黄色い髪(干刈あらた)」より抜粋

<引用終了>

 

黄色い髪という入試で頻出の小説から抜粋しました。この小説が入試でよく問題とされる理由として、描写にあらゆる意味が込められているということが考えられます。

例えば、上記の場面では、何気なく派手ないでたちの女の子を登場させていますが、この女の子も主人公の内面を投影させるために登場させています。

そのほか、通りに咲いている花や店先の店員などすべての描写に意味が込められているのがこの黄色い髪という小説です。

 

論理的文章は、言語化の文章です。テーマやメッセージを直接言葉にします。

一方、文学的文章(フィクション)は表現の文章です。ですので、表現に意味を込めて、読み手にわかってもらおうとします。決して直接は言語化しません。

なので感受性が必要とされる科目ですし、今まで多くのフィクションに触れてきたという経験値がものをいう科目とも言えます。そういう意味で本や小説のみならず映画や音楽といった表現物も十分にトレーニング材料足りえるんですねぇ。

 

以上、「フィクション読解の原則」ということで、フィクションを読み解く原理について解説しました。

 

先日かいた芥川龍之介の記事も今回と内容をより具体的に書いています。

 

では、ありがとうございましたm(__)m


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