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文系/理系に分かれる理由

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こんにちは、まなぶてらす国語講師の平井です。

<雑談>
※今回の雑談はアイスブレイクトークにしては超ボリュームなので、一番下に載せました。
本編よりも長いかもと恐る恐る文字数をカウントしたらそうでもなかったので、僕は笑顔です。
<雑談終了>

はい、では、本題に入ります。

今回は、「文系」と「理系」という分け方についてです。

文系と理系ってなぜ分かれているかご存知でしょうか。

超根本的過ぎて意識したことない問いって感じですかね(なんで人間の手の指は五本なんだ的な)。

文系と理系の違いをおさえることで、国語の読解で求められていることも、最近流行りの中高一貫校の対策も同時に理解できるのです。

(ちなみにネットで文系と理系の違いとか検索すると、「数学があるかないか」とかいう浅はかな記事しかでてこないです。)

まずは、文系科目から。

文系科目
言語<現代文 古文 漢文 外国語(英語)>
社会<歴史 政経 公民 倫理>

一方、

理系科目は、
数学<IA ⅡB ⅢC>
理科<化学 物理 地理 生物>

(地理を文系にするか理系にするかという問題がありますが、トピック的に理系に分類します。)


さあ、この文系科目と理系科目はなぜ分かれているのでしょう???

一言で言うならば、

「文系は人が作ったものを学ぶ科目」です。

一方理系は、

「理系は、自然の分析と研究をする科目」です。

まずですね。

文系
言語<現代文 古文 漢文 外国語(英語)>
社会<歴史 政経 公民 倫理>

これ全部人間が作ったものですよね?

言葉も社会も人間が作ったものです。自然に最初からそこにあったわけではないのです。

コミュニケーションが必要だから、言葉が生まれ、世の中のもろもろをうまく整備するために、法や政治、経済が作られました。倫理という概念も人間だからこそもつものです。

一方、

理系
数学<IA ⅡB ⅢC>
理科<化学 物理 地理 生物>

これは全部自然にあったものを「後から人間が研究している」だけです。
わかりやすいのは理科です。元素も重力も、生物も全部最初から地球にあります。
あとから人間が、「これはカルシウムだ」とか名前を付けているだけです。
じゃあ、数学はどうなのでしょうか?
数学も同様に、自然にあったものに人間が意味を与えているだけです。
りんごの木にりんごがいくつかなる。というのは、人間がせずとも自然現象として勝手に起こります。
いくつかりんごがなった状況を見て、「一個 二個 三個…」と結果を数え上げている状態になるわけです。関数なども同様に、自然におこることを分析しているにすぎないです。

このように、

文系=人間が作ったものを学ぶ学問

理系=自然にあるものを研究、分析する学問

ということになります。


さて、このお話は国語の読解問題にそのまま応用可能です。

国語の読解問題は、

左脳的な脳のはたらきと右脳的な脳のはたらき両方を試す科目です。

まず、左脳と右脳は

「左脳=論理・理屈で思考する」

「右脳=感覚・感性で感じ取る」

という点において働きが異なります。このあたりのお話は、テレビとかでもよく取り上げられています。

そして、この左脳と右脳の働きの違いを国語の読解に当てはめると

「左脳=論説 説明 (随筆) 系の文章」

「右脳=小説 物語 詩 短歌 俳句 系の文章」

と分類することができます。

論説 説明 (随筆)は「論理と理屈」の文章です。

一方、小説物語詩短歌俳句は、「感覚と感性」の文章です。

なぜ、文章問題が中学受験、大学受験、高校受験通し、二題出題されるかというと、それは、左脳と右脳どちらもバランスよく評価したいという出題者の狙いがわるわけです。

論理的に的確に構造を読解する能力があるとともに、登場人物の心模様を感覚で察知できる能力も社会には必要ですよね。

(ちなみに女の子の方が、小説物語系が得意なのは、感覚、感性が男の子より発達しているからです。特に中学受験では、それが如実に表れます。女子は「なんでこの人の気持ちわからないの???」的な目線で、クラスの男子を見ています。)

この分類はそのまま文系、理系に当てはめることができるのです。

左脳=理系=論説 説明 (随筆) 系の文章

右脳=文系=小説 物語 詩 短歌 俳句 系の文章

となります。

論説説明系の文章は、文中に筆者のイイタイコトは全部書かれます。それが、論理的に書く上でのマナーだからです。つまり、「感覚で感じ取ってくれ!!」という姿勢は、論理的文章を書く作者にはご法度の姿勢なのですね。

一方、小説物語系は、文中に表現された文から意味を感じ取ることがしばしば求められます。要するに、答えは文章中にないということが往々にして起こります。なぜなら「意味をすべて表現してしまう」という姿勢は、小説家にとって粋じゃないからです。(宮沢賢治の詩は、読み手に様々な解釈を残していますよね。)読書感想文コンクールがなぜ成り立つかといえば、それは、表現から何を読み取るべきかという件に関し、作者が全く関与していないからです。行間を読むとか、感覚で感じ取るというのは、現実の試験でも普通に起こりえます。もちろん理屈としての説明を出題者側はつけますが、まあ、感覚で読み取った方が速くて正確だよねってのが本音でもあります。小説物語を得意科目にするためには、何をやればいいかというご質問をよく受けます。残念ながら、小説物語というジャンルは、そういった受験対策的な手っ取り早い読解法をことごとく嫌うジャンルです。方法論を教えても根本に感受性がないとそのテクニックは価値がないです。小説物語を得意にするためには「多様な表現を受け入れる感受性を形成すること」です。そのために語彙力と読書量が必要なのです。手っ取り早い方法よりも、語彙力と読書量を積むことが最終的に勝負を決めます。

以上が、文系と理系、右脳と左脳、文学と論説のつながりになります。


最後にリベラルアーツ系の受験についてです。

リベラルアーツは文系理系の区分けをしないです。

それは、文系的な思考と理系的な思考を併せ持つ人材を求めているからです。

「ディスカッションしたうえで、プレゼンしなさい」

といった問題などがよく課されるのは、

ディスカッションという論理思考(理系的思考)とプレゼンという感覚技術(文系的思考)を併せもつ人材が欲しいためです。

国語にしても、リベラルアーツ系の学校にしても、なぜそうなっているかという根本原理を抑えることが大切です。文系と理系がなぜ分かれているかというお話は、そういう意味で受験生をエンパワーメントできる価値あるお話だと思います。

今回は以上です。ありがとうございましたm(__)m


 

以下、雑談。

ブログのあいさつ代わりにかくつもりが書き出したら非常に長くなりましたので、最後におまけとしてつけます。
(注意:長いけど無内容です。人生の一部をささげたのに得るものがない的なクレームはお控えください。)

<雑談開始>
小学校の友達の遠藤君の話。

うちの小学校、ってかどこの小学校もそうだと思うんですけど、「芋煮会」的な催しが定期的に開かれると思います。

僕の学校もご多分に漏れず芋煮会が毎年開催されるわけです。

あれは確か小学校二年生の時だったと思います。

遠藤君というクラスでもちょっとユニークな子がいました(浦安鉄筋家族の本田君に似てた)。

ラテンの血が入っているのか基本テンションは高め(両親は福島県人)。

相撲ごっこに「ウルトラマン」として参戦するという感性の持ち主でした(規格外の技を繰り出す)。

遠藤君の家は農家だったようで芋煮会の時、非常に頼りになります。

彼自身も率先して「材料は俺に任せろ!!」的なリーダーシップを発揮していました。

五人?の班でカレーを作ることになり、僕は遠藤君と同じ班に。

各人が材料を持ち寄るのですが、遠藤君は「ネギなら俺に任せろ!!!」と強気なアティチュードです。

「うち農家だからネギ作ってるんだよぉ~」と得意げな遠藤君。

ぼくらも「じゃあ頼むわ!!」と。一任。

農家だから材料費もいらないということで、金額の負担も軽減されます。

芋煮会当日。各人が材料を持ち寄ります。

(学校に普段持ってこないものを持ってくるだけで起こるあのワクワクです。)

肉 人参 ジャガイモ バーモントカレー と

カレーという食物構造体に必要な要素たちが続々とアウトドアテーブルに並べられていきます。

こんな時はたいてい、気を利かせた差し入れも各人のスキルアップポイントになります。

お母さんが

「果物切手くれたぁ~(最強:メロン 無難:リンゴ 微妙:オレンジ)」とか

「キットカットあるよぉ~」とか

「焼く用のマシュマロ~~(有能)」とかです。

班員四人がこれから食すカレーに胸をときめかせ、談笑する中

颯爽と遠藤君が大きいリュックを背負ってやってきました

(颯爽という言葉を映像で表現するならこうだろうなってくらい”颯爽”でした)。

「うぇい!!かあちゃんがいっぱいくれたよ!!ねぎ!!!」

「いいね!!」と四人(内心ネギそんないる?とも思う)

どんっ!!!とテーブルにリュックをおく遠藤君

(麻薬密売組織が大量の札束が入ったジュラルミンケースをおくあの感じ)。

リュックの中の布袋をずるっと引っ張り出します。

布袋は「すーーーーーーーー」とリュックから出てくるのです。

まずこの「すーーーーーーーー」と出てきた袋を見て、四人の心には言語化できない暗雲がたちこめたことでしょう。

四人は、言葉を交わさずとも、目を合わさずとも、一時のうちに同様の悲哀を共有したのです。

(これほど高次なコミュニケーションがあるでしょうか。)

その”ネギ”は、

ミートソースにみじん切りにし投入する彼

でもなく

マグロのカルパッチョとかいう二年に一回食えばいい方の料理の添え物になっている彼

でもなく

いきなりステーキでステーキの下にクッション的にしいてある彼

でもなかったのです。

四人の前に横たわる”ネギ”は、

味噌汁に使うとうまいあいつ

そばにいれると良いアクセントになるあいつ

牛丼にこんもり盛るという通なうまさを演出するあいつ

冷蔵庫にいれようとしても入らないから棚にいれておいて、でも棚に入れたの忘れるから結局くさっちゃうあいつ

で知られるあいつだったのです。

”玉”と”長”の区別をネギに与えないというブッダ並みに寛大なスピリットを持っていた遠藤君。

ネギという抽象概念にたばねられた長ネギはじゃがいもとにんじんと肉とルーから白い目で見られながらもテーブルにて最大の面積を占領しています。

こういうときはとりあえずクラス担任を呼ぶのが小学生の習性です。

クラス担任は、ここぞとばかりに

「寛容な精神の大切さ」を7歳の子供たちに説いてきます。

「過ちをおかした人間を諫めることなく、抱きしめることが大事だ」と言いたかったのでしょう。

「長ネギだけど大丈夫だよ、作れるよ(キラキラ笑み)」

四人(いや、作れるけど、食えるの????)

この道を行けば どうなるものか
危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし
踏み出せば その一足が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ 行けばわかるさ

粘度の高いカレーができました。(また長ネギの量が多いんだよなぁ泣)
迷わず行かなくても分かった気が…

今となってはいい思い出です。

僕の人生にカレーではなく、雑談ネタを与えてくれた遠藤君のお話でした。

(ながっ!!!!!)

(最後まで読んでくれたそこのあなたは優しいので明日も笑顔で生きれますよ)

<雑談終了>


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